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大阪地方裁判所 昭和48年(わ)2889号 判決

主文

被告人は無罪

理由

本件公訴事実は、

被告人は、昭和四八年八月六日午前四時一五分ころ、大阪市東住吉区平野野堂町四四〇番地パチンコ店甲新会館三階従業員寮の独身者室において、飲酒のうえ大声を発し、かねてから不仲の同僚古川猛(当四五年)から、注意されたことに立腹し、とっさに日ごろのうっ憤を晴らすため同人を殺害しようと決意し、室内にあった刃渡り約五センチメートルの切出ナイフで、同人の左前頸部を突き刺し、よって同日午前五時二分ころ同区中野町二〇九番地森本病院において、同人を左上甲状腺動脈切断による失血により死亡させて殺害したものである。

というにある。

右公訴事実中、動機および殺意を除く外形的事実の点については、≪証拠省略≫によりこれを認めることができる。

そこで、本件犯行当時の被告人の精神状態を判断するに、前掲各証拠のほか、≪証拠省略≫を総合すれば、次の各事実を認めることができる。

1  被告人は昭和四八年七月八日ころから、パチンコ店甲新会館に住込店員として就職し、同僚とともに同会館三階の従業員寮独身者室に起居していたものであるが、同年八月五日仕事を終えた後、午後一一時過ぎころ、同僚の藤井弘、西尾法明とともに、近所のホルモン店「白鷺」に赴き、同所で、バラ肉を食べながら、三人でビール大五本(はじめ三人で二本、その後被告人一人で三本)くらいを飲み、同店を出てから甲新会館近くの自動販売機で日本酒一合を飲んだうえ、翌六日午前零時過ぎころ帰寮し、前記独身者室で、同僚の森田勝彦も加わり、前記藤井、西尾らとしばらく雑談していたが、まだ飲み足りなく思い、前記森田を誘って、さらに、同人とともにタクシーで西田辺のホルモン店「たいへい」へ赴き、同所で、みのを食べながら、二人でビール大五本(被告人は四本、森田は一本)くらいを食み、同日午前二時半ないし三時ころ同店を出た。このように被告人は、犯行前日の午後一一時過ぎから犯行当日の午前二時半ないし三時ころまでの間に、ビール大七本強および日本酒一合くらいを飲んでいる。

なお、被告人の普段の酒量は、ビールなら大四、五本、日本酒なら四、五合くらいである。

2  被告人は右飲酒のためアルコールの影響を強く受け、帰りのタクシーを拾うため路上に横臥するなどしてようやく帰寮し、玄関で大声を出して騒いだため、同行していた森田に、酔いを醒ますべく甲新会館の屋上に連れていかれたが、ここでもしばらく、大声を出して騒いでは制止されると首をうなだれて静かになるという状態を繰り返し、一五ないし二〇分して一応収まった後、森田に肩を組んでもらって下に降り、前記独身者室前で同人と別れ、同室に戻った。

3  被告人は、このようにして独身者室に戻ってから、本件犯行に及んだものであるが、当時同室には、被告人と被害者古川の外に前示藤井および西尾が就寝しており、右両名が叫び声で眼を覚ました時は、すでに凶行が終った後で、古川はベッド上で両手を胸に当てた恰好で座っており、被告人は二メートルほど離れたところに茫然と立ちすくんでいた。

なお、前記二度目の外出の際被告人が着用していた新品に近い青色ズボン上部に切り裂いたような破損箇所がみられるが、それがいつ、どうしてできたかは不明である。

4  被告人は、同日午前四時二五分ころ警察官に逮捕され、引き続き警察さらに検察庁で取り調べを受けたものであるが、前記ホルモン店「白鷺」での飲酒から帰寮後の同僚との雑談、さらにはその後森田とタクシーでホルモン店「たいへい」に赴いたことまでは比較的良く記憶しており、詳細に供述しているものの、右「たいへい」を出たあたりから急速に記憶が不鮮明となり、路上で横臥したこともわずかに記憶している程度で、それから後は、タクシーで帰寮したこと、玄関で大声を出し、森田に連れられ屋上に上ったこと、屋上でも大声を出してわめいたこと、独身者室に戻り被害者古川を刺すに至るまでの経緯など犯行前一時間余りの行動についての記憶が全くなく、しかも、この間に被告人が眠ったという形跡も認められない。被告人は、古川の首から血が噴き出すのを見てはじめて我に帰り、その後のことは大体覚えているという状態であった。

5  本件犯行の動機については、犯行直前被告人と古川との間にどのようなことがあったのかは全く不明であり、また、被告人が平素から古川をあまり好ましくない人物と思っていたことは認められるが、それは、職場の同寮、先輩間に通常ありがちなささいなことによるもので、殺意と結びつくほど強いものであったとは考えられない。

なお、犯行直前の状況について、被告人の検察官に対する昭和四八年八月二三日付供述調書中には、被告人が飲酒のうえ前記独身者室で騒いだため、同室の被害者から注意されてカッとなり、同人に対する日ごろからの不快の念もあって、ナイフで同人を刺したのではないかと思う旨の供述記載があるが、これは、前記のように、本件犯行当時の事情につき記憶のなかった被告人が憶測、想像に基づいてなしたものと考えられ、このことは右記載じたいからも明らかであって、信用性の乏しいものというべきである。

6  被告人は、小学四年生の時交通事故により頭部を強く打ち、意識不明となって入院したことがあり、その後中学三年生のころ再び突然意識不明となって入院し、意識回復後左半身不随の後遺症が残り、精密検査の結果右頭頂部動静脈奇形と診断され、医師からは手術の必要性を指摘されたが、何ら適切な治療がなされないまま今日に至っている。

以上の各事実ならびに鑑定人木村定作成の鑑定書および≪証拠省略≫を総合すれば、被告人は前示右頭頂部動静脈奇形のため、ある程度以上のアルコールが摂取されれば、容易にもうろう状態を生じ、病的酩酊を生ずる可能性を有していたところ、前示飲酒の結果、本件犯行当時アルコールの影響により病的酩酊の状態にあり、是非善悪の弁別能力を全く失っていたものとの疑いがきわめて強いものといわざるをえない。

よって、被告人は本件犯行当時心神喪失の状態にあったものというべきであるから、刑事訴訟法三三六条により無罪の言い渡しをすることとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 大政正一 裁判官 井上清 池田勝之)

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